アジアの支配者、客家。
ゴージャス客家の代表的存在、宋家豪傑三姉妹。今回の推しメンです。
三女美齡・長女靄齢・次女慶齢
「一人(長女)は金と、一人(次女)は国家と、一人(三女)は権力と結婚した」
by 毛沢東
こんな怖い雰囲気の大お局様三羽烏が社内にいたら、とっても大変ですね。
天才的お太鼓持ちスキルの無い方は、どんな事があっても崇め奉り、のらりくらりニヤニヤ笑顔を絶やさず空気的存在を目指しましょう。
(※お太鼓持ちスキルが中途半端ですと、悲惨な結果を招きますのでご注意下さい。)
すいません。しばらくサボっておりました。
自由気ままポンコツテキトー妄想過疎ブログですが、もしかしてお付き合い下さっている方がいらっしゃるとしましたら(閲覧にせよ、監視にせよ)、大変申し訳なく思っております。
そろそろ下書きを始めようと思いまして、物部氏→新羅→女真族の清朝ですから(多分)、その次の中華民国をもう少し調べようとネットサーフィンしてみたのでした。
結果、私的に想定外な驚きの掘り出し物を発見してしまったので、お久しぶりにこじつけ妄想陰謀論ファンタジーする事にしました。今回も相変わらず、ケルト(スコットランド)やらイエズス会やらです。
正直、ここまで掘れてしまうというのは私的に驚愕以外の何ものでもありません。あまり余計な事が流布されない日本の世の中に薄気味悪さを感じてしまいますが、大丈夫!大丈夫!
気のせいですから!(多分)
最悪な事が起こったとしても、人はいずれ死に、この世とオサラバできますから!
↑まずは、通州事件をご存知ない方はこちらをご覧になって下さい。(※字が小さいので老眼の方はご注意下さい。)
中国人のご主人Tさんに従い、首都北京市の東南部に位置する通州へ渡った日本人妻Sさんの証言です。
トラウマ級の残虐さですので苦手な方は、『日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです』の部分まではお読みになれるかと思います。(※残虐な写真にご注意下さい。)通州事件勃発に至るまでの空気感を学ぶ事が重要と思いますから。
Sさんが通州に来たばかりの頃は、日本の関東軍に占領されているというわだかまりは多少あれども、日本人、朝鮮人、中国人、皆揉める事無く活気あふれる町でした。
それがやがて、朝鮮人達が中国人達に日本人の悪口を吹聴するようになります。初めの内は中国人達も聞き流していたのですが、徐々に中国人達の気持ちに火が付き始め、町は不穏な空気に包まれてゆきます。
そして、事件直前の頃には、不思議と朝鮮人達は影を潜めるように日本人の悪口を言わなくなっていたのでした…。
(当時は朝鮮人も日本国民でした。死亡者223人中、日本人117人、朝鮮人106人。)
↑日本側の華北分離工作により、日本側代表の土肥原賢二と中華民国側代表の秦徳純(中国の秦氏)の土肥原・秦協定が成立しました。これにより、国民党は重要な首都北京や天津から国民党軍を撤退させざるを経なくなります。中国の秦氏さんも随分な売国ぶりですね。
その結果、1935年北京市の通州に、冀東防共自治政府(共産党を防ぐ政権)が設立されます。早稲田大出の親日家で国民党の殷汝耕を担ぎ出しての日本側傀儡政権です。この国民党気味の日本傀儡政権の中国人保安部隊が関東軍と共に通州を守る事になりました。
しかし、1937年7月23日。米ソの協力の元、共産党の周恩来と国民党の蒋介石の働きにより、抗日の為の第二次国共合作が宣言されます。周恩来も蒋介石も客家です。米ソ客家グルグルの八百長構図ですね。(殷、周、秦と言えば。客家の故郷的古代国家であると同時に、倭人[日本人]の故郷でもあります。)
そして、1937年7月29日、通州事件が起こるのです。
↑冀東防共自治政府に共産党が入り込んでいた為に通州事件が起きた事が判明したよとの産経の記事。2017年。
きな臭い学校発見伝説。
↑これには驚愕しました。中共の扇動という事など、当時の関東軍はとっくに調べがついて報復していたのです。(中国語wikiです。日本語wikiは本当に物足りないですね。)
この北京市通州区潞河中学校 (日本語翻訳機能を使うと何故か鹿河中学校と表示されます。)は1867年アメリカ会衆派教会によって設立、運営されました。アメリカ会衆派はスコットランド長老派からの分派です。
潞河中学校は高級中学校なので、日本でいえば高等学校にあたります。北京市重点高級中学校で、文武両道の名門校のようです。
1927年、中国共産主義青年団支部が校内に秘密裏に設立されました。初代書記長は朝鮮人の金成豪でした。以後、秘密裏に共産主義組織による反日活動が活発化していきました。
関東軍上層部はこの動きを察知していたと思われます。今の日本の諜報員より、自由で優秀な諜報員がいたはずですから。(最近話題の別班は米軍から予算が出ているようなので、本体は日本の組織ではありません。しかし倭人分派があるようで…。)
通州事件において、暴徒の先頭に立って過激な行動を主導し、中国人保安部隊を誘導していた学生団がいたというのは有名な話ですね。その学生とは、ここの共産党秘密結社の学生だったのではないでしょうか?
しかし、事件当日まで関東軍は北京・天津で国民党軍と激突していたので、どうする事もできなかったのです。
通州事件の裏にアメリカケルトの影…。キリスト教と左翼のコンビネーションは本当に多いです。
争わせて分断して統治するという有名な手法ですね。
それでは、今回の推しメン3姉妹のご主人様方をそれぞれチェックしてみましょう。
まずは、長女、宋靄齢のご主人様から。
↑孔子の子孫を自称する孔祥熙は、あの北京市通州区潞河中学校の卒業生です。アメリカ会衆派教会の洗礼を受けました。卒業後はアメリカへ渡り、オーバリン大学やイェール大学を卒業しました。(桜美林高校・大学の名の由来はオーバリン大学だそうです。桜美林といえば…スーパーナンペイ…。中国人容疑者…。孔子といえば不穏な噂の多い、孔子学院。桜美林大学の孔子学院は東日本では最初に設置された孔子学院です…。)
イギリスのアジアシェル石油の山西省での独占代理権を獲得し、莫大な利益を得た後、来日しました。東京では中国人YMCAの総幹事を務めていました。 YMCAはイルミナティの下部組織と言われますね。そして、宋家の長女、靄齢と横浜で結婚式を挙げました。クリスチャン同士の結婚でした。
横浜といえば、かつて存在した外国人居留地。イギリス人、アメリカ人、ドイツ人だけでなく客家華僑も多く住んでいました。関東大震災で欧米人が帰国してからは、客家華僑の中華街になりました。欧米と客家華僑の癒着が垣間見れるというものです。
孫文と蒋介石を支え、国民党政府の財政を握り、孔家宋家夫婦で、国民党政権や民衆から財産を巻き上げ私服を肥やしました。クリスチャンてそういう感じなのですね。綺麗事で身を包みながら…。
お次は、次女、宋慶齢のご主人様。
↑孫文といえば客家ですね。日本名、孫中山。生粋の弥生系平たい顔族漢民族と違い、客家は目鼻立がハッキリとして左右対称で整っております。一応、客家も漢民族の一派とされますが、ネアンデルタール人の血が濃い縄文人系統ですね。ネアンデルタール人の血液型はRh−だったそうですが、客家にもRh−が多いとの事。漢民族と同族のふりをして、大量にいる漢民族を誘導しているのではないでしょうか。数世紀に渡り、漢民族大量募集中!
先祖には、「戦わずして勝つ」の兵法で有名な孫子や、三國志でお馴染みの呉の孫権などがおり、名門の血筋です。今の日本においては、大量な漢民族移民で、戦わずして負けそうな勢いであります。
若い頃には、ハワイの英国国教会ウィリス司教が運営する教会学校であるイオラニ大学や、アメリカ会衆派教会が設立したオアホアカデミーへ留学しました。
帰国後は、アメリカ会衆派宣教師ヒガーリ牧師の庇護の元、香港の会衆派教会に入学。その後、イギリスにより設立された香港中央学院に転校、キリスト教の洗礼を受けました。
そして、ロンドン宣教師協会と提携している香港の中国医学大学に入学。校長はスコットランドの有名な医師キャントリーでした。優秀な孫文はキャントリー先生から非常に可愛がられ、クリケットのプレーも教えてもらいました。
この頃、広東最大のマフィア「三合会」(洪門、トライアド)の会長であった父親の達成が死去し、孫文は22歳の若さで跡目を継いで「三合会」の会長に就任しました。
三合会の祖は洪門。洪門の設立は明末清初、日本では江戸時代初期ですね。合言葉は“反清復明”、打倒!女真族!ですね。その洪門のカリスマであった鄭成功は、カトリック教徒で海賊漢民族の父と日本人の母から産まれた、日漢ハーフでした。
鄭成功は、明の洪武帝 朱元璋の末裔、隆武帝から国姓である「朱」姓を賜りました。
※明の洪武帝 朱元璋は、後ほども出ますので、ぜひ覚えておいて下さい。
台湾では、孫文、蒋介石と並び、「三人の国神」として崇められています。何だかんだ言っても、台湾も漢民族の国なのです。
↑日本産まれ、日本育ちの鄭成功。
↑香港での民主派デモ隊を襲撃していた恐るべき組織、三合会…。
首席で卒業した孫文は、ポルトガルの植民地マカオで、表の顔は内科医として働きながら、裏の顔、「三合会」の親分として革命活動を開始します。働き者な親分ですね。
1895年、香港で、「満州族絶滅!漢民族復興!」を合言葉に、三合会から荒くれ者突撃隊を選抜し、興中協会を結成!最初の武装蜂起を起こしましたが失敗、日本へ逃亡しました。横浜で興中協会支部を設立、その後はサンフランシスコにも興中協会支部を設立、香港の革命拠点やホノルルの興中協会本部とも連携を取合い、革命活動を秘密裏に進めました。
※興中協会=漢民族の中国を復興させる協会。
1896年9月30日、孫文はキャントリー先生からの招待を受けてロンドンへ渡ります。英国の清国大使館に逮捕され、強制送還されそうになるなど、一悶着ありましたが、キャントリー先生のご活躍により無事助け出されました。
この事件により、孫文は世界的革命家として人気者になります。
このように、危ない人物を必死でフォローし、世界的英雄に仕立て上げるとは、これいかに。キャントリー先生のお里が知れようというものです。
↑ケルト民族、ジェームズ・キャントリー先生
翌年の1897 年には、再度日本の横浜に上陸。犬養毅や頭山満、黒龍会メンバーなど、アジア主義者らの世話になります。
アジア主義者らは、マフィアの親分でもあり、世界的革命家として人気者でもある孫文に、せっせと衣食住・活動費など巨額な支援金を上納しました。また、中国に正妻がいるのに、日本人の妻や愛人のアテンドも抜かり無くキッチリこなしました。
随分、気合の入った上納システムですね。と、言いますのも、孫文が何の権利もない満州を頭山満に譲渡するなどと、騙したからなのですね。笑
マフィアの親分の詐欺は、スケールが違います。客家人マフィア組織の背後に蠢くケルトカルト神智学人脈を思えば、騙されたふりをして上納せざるを経ない事情があったのかもしれません。
犬養毅(犬飼氏)といえば、古代皇族の末裔。桃太郎伝説のお供の犬のモデルになった氏族ですね。
鬼の正体は百済の王子、温羅(うら)。さらに温羅の正体は百済の王子、扶余豊璋との説がありますね。
その昔、滅亡寸前の百済を再興する為に、百済の王族であり忠臣の鬼室福信が、皇極天皇へ豊璋王子の帰還と援軍を要請しました。古代天孫族は濊、扶余からの百済と同系ですので、皇極天皇はこれを快諾。優秀な秦田来津(はたのたくつ:秦氏)をお付きにさせて、豊璋王子と援軍を送り込みました。百済系と秦氏のコンビネーションです。
しかし、豊璋王子は我儘放題に振る舞います。戦争中であるにも関わらず、福信や田来津の忠告を無視して、都を険峻な要害の地ではなく、低地で暮らしやすい避城へ遷してしまいます。言うまでもなく、これが仇となり、遷都後間もなくあっさり新羅に攻め込まれてしまいました。
百済軍の統率を担っていた鬼室福信を豊璋自ら殺害した上、秦田来津まで戦死したのに、自分だけ脱出して日本でのうのうと暮らしていたら、そりゃあ天孫族桃太郎に討ち取られようと言うものです。
扶余豊璋の振る舞いを鑑みるに、もしかして、ケルト物部氏の策略通りに動いていたのかもしれません。敵(新羅)に塩を送るような動きをしていますからね。豊璋王子を洗脳して抱き込んだか、こっそり新羅人とすり替えたのかもしれません。新羅は物部氏が建国したであろう事は、以前ブログで述べた通りです。
そして、特筆すべきは頭山満や、八咫烏下部組織と言われる黒龍会など、大アジア主義者らです。
↑前列左頭山満、右から2人目、今年から万札の顔になる渋沢栄一。別名、客家人大学とも言われる国士舘大学創設協議中の撮影。(韓国文在寅元大統領のお嬢さんが留学していたり、北への送金機関ではないかなど、怪しい噂てんこ盛り大学ですね。)
・イエズス会士でイルミナティ創設者のヨハン・アダム・ヴァイスハウプト
ヴァイスハウプト=白い頭。
↑白頭山や満州というと、物部氏→新羅→満州族(女真族)を思い浮かべますが、頭山満氏の場合は違います。
白頭山という呼び名は、上記の通り、イエズス会的イルミナティ風です。その昔は、太白山、満州族は長白山と呼んでいたのに、いつの間にか白頭山が定着してしまいました。満州族だけでなく、百済や高句麗の扶余にとっても大切な山ですね。
頭山満氏は、満州に影響力を持っていた関東軍と距離を置き、満州族の清国に敵愾心を燃やしていました。若い頃の思想は、幕末当時タブーの勤王派。西郷隆盛氏を熱烈に尊敬しておりました。
西郷隆盛氏の西郷氏は、菊池氏流西郷氏と言われ、百済の第25代王・武寧王の流れを汲む、百済系渡来氏族とする系譜が存在するとの事。薩摩藩主の島津氏は秦氏。ここでもやはり、百済系と秦氏のコンビネーションです。
西郷隆盛と言えば、「敬天愛人」です。この「敬天愛人」とは清国の康煕帝がイエズス会に贈った言葉です。康煕帝は、文武両道、質素倹約な中国歴代皇帝の中でも一二を争う程の大君ですが、西洋文明をエサにイエズス会に騙くらかされておりました。織田信長みたいですね。西郷隆盛氏が何故「敬天愛人」を用いるようになったかと言えば、それはフルベッキ氏の影響でしょう。洗礼も受けていたと言われます。フルベッキ氏は、イエズス会の別動隊、オランダ・カルヴァン派でした。
大アジア主義者らの背後に漂う、イエズス会とイルミナティの影…。ここまで臭うと…あいつらもいるはずだ…。ネットサーフィンしました。
↓ありました。インド独立運動やロシア革命を扇動したあいつら…。そう…ケルト系神智学協会。
昨年の甲子園野球の応援で、そのカルト性が盛大にバレてしまった慶応大学で教鞭を取っていたジェイムズ・カズンズ氏が神智学協会の本場、インドへ旅立ってしまう事を惜しむ記事。
ジェイムズ・カズンズ氏は、アイルランド(ケルト)出身の神智学徒で、神智学協会東京支部を創設しました。
黒龍会『亜細亜時論』の4巻4号(大正9年4月1日)掲載の「姉妹誌エシアン・レビユー発刊披露会」によると、同年3月6日に築地精養軒で開催された同会には、大アジア主義者らと、ジェイムズ・カズンズ氏が出席していたとの事。
頭山満の、インド、中国、朝鮮への独立運動支援はケルト神智学協会の行動そのものですからね。その行動についてはこれまでブログ内で述べてきた通りです。
日本の上層部と言われる八咫烏の下部組織がこれですから、上層部がどうなっているかは言わずと知れた事。すでに我々国民を棄民している最近の日本政治情勢を見ても、異民族やカルトに侵食され、取り返しのつかない事になっている事は明らかであります。
騎馬民族に煮え湯を飲まされてきた、客家・漢民族と百済系扶余族が、イエズス会イルミナティやケルト神智学協会の仲介で、タッグを組まされているようにも見えます。
それでは、孫文に戻ります。
1915年頃、孫文は中国の妻と離婚し、宗家の次女、宋慶齢と27歳もの歳の差を乗り越え、東京で結婚しました。この結婚は、大アジア主義者らが整えたといいます。ちょっと面倒見過ぎじゃないですかね。
同じ客家・クリスチャン同士の結婚でした。長くアメリカに留学していた慶齢は、北京語と広東語ができず、また、孫文も上海語ができなかった為、夫婦の会話は英語でした。
この頃、中国全土で「抗日愛国運動」の五・四運動が広まり、ロシア革命が起ります。
夫婦はマルクス主義へ傾倒していきました。ロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立しました。このような状況ですので、中国共産党と中国国民党は「異母兄弟」であります。
1923年には、ソ連代表アドリフ・ヨッフェとの共同声明「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表。ソ連からの支援を取り付けます。この辺りから反共的風な蔣介石と表向きは対立する事となります。
そして、1924年1月、第一次国共合作。ソ連の協力のもと、毛沢東ら共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取りました。目的は、「打倒英国!満州族絶滅!漢民族復興!」です。10月には日本の神戸にて、「大アジア主義講演」を行いました。
「弱小民族および国家は、いずれも中国を宗主国となし、中国に朝貢することをもって光栄とし、朝貢できないことを恥辱としていた有り様であった」
「ロシアの新文化(共産主義)は、わが東洋古来の文化に合致するものであって、彼らは東洋と手を握り、西洋より分家しようとしているのであります。」
ロシア共産主義と中国漢民族は、共産主義クラブで今めっちゃ仲良くやってるよ。子分の日本も仲間にしてやるよ。共産主義がロシアを含めた東洋の王道だよ。との事です。一般日本国民からしたら迷惑な勧誘でしかない、カルト的迷演説でした。また、「打倒英国!」を掲げ、インド独立運動を支持する姿勢は、ケルト系神智学協会の思想と一致します。
1925年、志半ばで孫文死去。その後、妻の宋慶齢は、国民党を脱退。第二次国共合作成立に尽力し、宋家の三姉妹で抗日統一戦線の象徴として戦地での慰問等の活動を行う政治的なプロパガンダ活動を精力的にこなしました。中華人民共和国成立後は中央人民政府副主席を務めるなど、毛沢東の庇護のもと、中国革命の国母として出世街道をひた走りました。ちなみに、孫文も中華人民共和国において革命の国父として崇められています。八咫烏下部組織、大アジア主義者らの正体が仄見えてきますね。極右の皮を被った極左です。日本の上層部は皆、共産主義カルトです。
という序列も見えてきます。
あの恐ろしげな三合会よりも、まだまだ上がいるのかと思うと、失神してしまいそうです…。
ところで、孫文には日本人の軍事顧問がいました。大日本帝國陸軍、佐々木到一氏です。新国家・満州国の満州国軍創設に関わり、後に、満州国軍政部最高顧問に就任しました。別名、佐々木蒙古王。人民服の考案、デザインを行ったともされます。
↑佐々木到一氏
佐々木氏といえば佐々木源氏。
全国の佐々木さんのルーツは、ここ一箇所。滋賀県にある沙沙貴神社。佐々木源氏の神社です。ですので、佐々木さんは源氏なのです。
近江の源氏には、佐々木源氏だけでなく、新羅源氏もおりました。源頼義の三男、新羅三郎義光については、前々回の物部氏の記事の中にも少し書きましたが、やはり、思い起こされるのは、こちらの記事。↓
無駄に長いので、ノモンハンの部分だけ抜き出しました。
佐々木到一氏の別名、佐々木蒙古王…。
物部氏の香りがしてまいりました。
佐々木到一氏は、陸軍退役後は満州国協和会の理事に就任しました。
↑なんと、満州国協和会の制服が7,500円で落札されておりました。まるで人民服ですね。立折襟です。
立折襟のルーツはモンゴルの民族衣装デールの詰襟です。
蒙古族のデールが、同じ騎馬民族の女真族(満州族)に広まりました。
源氏とつながりがある、蒙古族、満州族(女真族)の民族衣装を漢民族の人民服として、こっそり忍ばせるとは、やりましたね佐々木先生。笑
ロシア、ナホトカの建物に源氏の笹竜胆紋が!?中国、公主嶺市に義経の墓が!?(ノモンハンじゃなくて!?)大陸東北部沿岸の粛慎・挹婁を従えていた奥州藤原氏!?
※粛慎の後裔が挹婁。挹婁の後裔が女真族。
アジアの天下取りを賭けて、物部新羅女真族蒙古族の騎馬民族チームと、客家漢民族扶余族の農耕民族チームがバトルを繰り広げるという結構わかりやすい構図になっているようにも見えます。
ノモンハンには、騎馬民族チーム満洲国協和会派閥にとって、やはり何か重要な物があったのでしょうか?
満州国協和会…。関東軍が中心となり、社会主義、共産主義的色合いの強い組織。公然と満州での一党独裁を目指しており、形だけ名誉総裁の愛新覚羅溥儀にちょっぴり嫌がられていた組織…。
やらなくても良いノモンハンでの紛争を、謎に拡大させ暴走していた辻政信。その辻の暴走を黙認し、握りつぶしていた板垣征四郎。
東條英機に可愛がられていた甘粕正彦は、ノモンハン事件のドサクサに紛れて何かを探していた…。
上記の佐々木到一や、板垣征四郎、甘粕正彦は満州国協和会の重要人物ですね。
戦後、統制派の東條英機、板垣征四郎はA級戦犯。甘粕正彦は自殺。佐々木到一はシベリア抑留後、中国に送られて死亡。物部氏の野望は上手い事片付けられてしまいました。
ちなみに、満洲国協和会の重要人物、小澤開作は三男に、板垣征四郎と石原莞爾から一文字ずつ頂戴して、征爾と名付けました。そう、最近お亡くなりになった、小澤征爾氏ですね。
そして…、爆弾投下。笑。とは言えまぁ、ネットに転がってる情報ですからね。本当かどうかも分かりません。しかし…、火のないところに煙は立たないと言いますからね。
皆が気になる「孫中山」という日本名。
そのルーツは、藤原北家支流にあたる公家・華族、京・中山家にあります。家格だけ立派な貧乏華族でした。
そんな中山家ですが、第119代光格天皇の第六王子、中山忠伊が臣籍降下してきた事により、世に怪しい光を放ち始めます。
そう…、人名でのウィキが無い、忠伊の息子、中山忠英こそが…、孫文を、猶子(養子)にしました。中山忠英は大日本皇道立教会の初代会長です。この大日本皇道立教会が、後の創価学会になる事は、陰謀論好きにとっては基本中の基本でありますね。
京中山家→三合会(洪門)、孫中山(孫文)→大日本皇道立教会→創価学会
大日本皇道立教会の幹部には、頭山満などの、アジア主義者らや、イエズス会の別動隊、フルベッキ先生の教え子大隈重信、西郷隆盛の後輩で男前な東郷平八郎、藤原氏のフリをした秦氏の波多野敬直などがおりました。会員には、日本でのニューエイジの先駆者、中村天風がおりました。ニューエイジとは、ニューソートと神智学を混ぜたカルト思想です。
秦氏、百済、天孫族(皇族)、漢民族、イエズス会、神智学、カルトな農耕民族チームの香り満載です。
この、中山忠英ですが、なんと!黄龍会の会長であったとも言われています。八咫烏の下部組織、五龍会のトップは黄龍会と言われます。目立つ風な赤は目眩まし。本当のトップは一番目立つ黄色(金色)なのです。
第二次世界大戦で目立っていた、黒龍会と緑龍会。特に、あの一連のオウム事件では、尻尾を見せていたと言われる緑龍会。下っ端の黒と青(緑)が必死で、上の、白、赤(朱)、黄をカモフラしているのでしょうか。お疲れ様です。
※あの一連のオウム事件、本当にヤバい人達(組織)はTVにいっさい出ていないそうです。カモフラ兵器TV。
八咫烏、五龍会を仄めかすようなカラフル戦隊シリーズを制作し続ける東映。初期の東映には、甘粕正彦氏が理事長を務めた、満映の多くのスタッフが参加していたと言います。騎馬民族チームによる嫌がらせですね。
緑龍会総長:上田吉松
赤龍会総長:上原勇作
黄龍会総長:中山忠英
白龍会総長:杉山茂丸
↑よく見ると、全員、カルト神智学アジア主義な農耕民族チームです。物部氏系騎馬民族チームは、八咫烏クラブから弾き出されているようです。騎馬民族チームも八咫烏内の一派だと思っておりましたが、勘違いだったようです。申し訳ありません。このあたりの事は、今後の課題にしたいと思います。
↑中山忠能の麗しい娘の慶子は、孝明天皇の典侍(妾)となり、後の、怪しい噂てんこ盛りの明治天皇を世に産み落としました。
↑慶子の弟さん、中山 忠光は過激な尊王攘夷派で、暗殺されてしまいました。犯人が、どのチームかは、もうおわかりですね。
忠光の娘、南加の孫が、あの愛新覚羅溥傑に嫁いだ嵯峨浩さんです。激動の時代に翻弄され、皇帝の親族としては質素な生活ながらも仲の良いおしどり夫婦であった事で有名ですね。上品でお綺麗な浩さんがお嫁に来てくれて、溥傑さんも嬉しそうです。良い写真ですね。意外な事に、この政略結婚は関東軍がまとめました。凄いですね、藤原氏って。両建てで器用に生き抜くんです。敵方に大切な娘を嫁に出すとは、アクロバティックな離れ技です。まぁ、王侯貴族とは古今東西いつの時代もそういうものですかね。この世で密かに、そして最も重いものは高貴な血脈ですから。庶民の血など何の価値もありません。仲良くケンカしてろって感じです。
天孫族(皇族)と漢民族のタッグによるアジア主義といえば、思い起こされてくるのがこの方。自由を愛するフリーメイソンな皇族、東久邇宮稔彦王。伏見宮系列の方ですね。
敗戦直後、「国民全員が天皇に敗戦を詫びる」という「一億総懺悔」発言で物議を醸した人でした。国の上層部派閥争いの満州争奪戦のせいで、太平洋戦争に巻き込まれた被害者である国民を悪者にするなんて極悪非道ですね。この発言を吉田茂がアレンジして、謝罪相手を天皇から、米ソやアジア諸国にすり替えて、自虐史観が生まれ、戦争責任がウヤムヤになりました。ふざけるのもいい加減にしてほしいものです。
ケルト神智学協会、イエズス会イルミナティ、農耕民族チーム、騎馬民族チーム、お前らが日本の一般国民やアジア諸国の一般国民に謝れ。と言いたくもなります。
この東久邇宮稔彦王は、一応は太平洋戦争回避に尽力したり、開戦直後は、神智学クラブの使い走りチンピラ右翼の頭山満(失礼!✋)を自邸に招き入れて、蒋介石との和平交渉を打診したりなどしていました。皇族がチンピラ(失礼!✋)を自邸に上げるなんて不自然ですね。アジア主義者確定です。もしくは騙されていたか。後に、「勝手な事をするな」と騎馬民族チームの東條英機に怒られてしまいました。
↑蒋介石を祀った中正神社(何故か愛知県に所在)。新興宗教である、宗教法人山蔭神道が管理する神社。教義や行法には修験道や神智学、吉田神道など時代や教義を問わずさまざまな宗教の影響がみられるとの事。神智学…。宗教は混ぜるな!キケン!✋
ところで、東久邇宮稔彦王には、妙な噂がありますね。
秩父宮、高松宮、は貞明皇后と東久邇宮稔彦王との子供なのではないかと…。
昭和天皇は、貞明皇后と西園寺八郎(長州毛利家)との子供だとの事…。
さらに、貞明皇后の母親は、明朝創始者、洪武帝 朱元璋の末裔とされる、朱貞明であったというのです。既に日本の皇族はチェックメイト状態。女性天皇が爆誕し、愛子様が漢民族系列のお婿さんをお迎えすれば、ゲーム終了という事でしょうか?
そしてあの226事件、反乱を起こした青年将校らが期待を寄せていたのが秩父宮ですね。青年将校らは処刑前に「秩父宮万歳!」と叫んだとも言われます。天皇の座を昭和天皇から秩父宮へ譲位させるのが目的だったのではないでしょうか。秩父宮は貞明皇后から溺愛されていたと言いますが、上の噂が本当だとすれば、漢民族朱元璋末裔の血脈と日本の伏見宮系皇族との血脈の方が、長州の武家との血脈より、ステータスが高いですね。
もしかして、226事件の首謀者は、漢民族貞明皇后と伏見宮博恭王の2人だったかもしれないとの疑惑が湧きました。
今更出てきた海軍の秘密文書。何だか、おかしいですね。海軍は陸軍皇道派の青年将校らを監視したり、接触があったり、事件決起を一週間程前から察知ていたと言うのに、昭和天皇へ報告しなかったんですね。海軍の実権を握っていた伏見宮博恭王が知らなかったわけがありません。
事件勃発直後、昭和天皇は伏見宮博恭王を真っ先に呼びつけて「海軍の青年将校は事件に参加しないよね!」と、釘を刺しています。一番の疑惑の人物だったのではないでしょうか。
秩父宮は、事件翌日、任務先の弘前から大急ぎで帰京して昭和天皇に拝謁します。が、当然怒られてしまいました。汗
その後、貞明皇后邸へ赴き、長時間籠っていたといわれます。ちょっとやり過ぎたから大人しくしようね〜。など話し合ったのでしょうか。
↑戦後、傍系の伏見宮系列皇族の臣籍降下。この人らを追っ払いたいと一番願っていたのは、昭和天皇だろうなとは常々思っていましたが、やはり、ありました。
真っ先に臣籍降下を願い出たのは、例のアタオカ皇族、東久邇宮稔彦王でした。この方は、若い頃から明治天皇に臣籍降下を願い出るなど、ヤンチャな方なので納得です。
問題は、昭和天皇がどうだったのかです。
『昭和天皇は11月29日、皇族たちに対し、「色々の事情より直系の皇族をのぞき、他の十一宮は、此際(このさい)、臣籍降下にしてもらい度(たく)」「時期は来年(47年)一月末か二月頃がよかろう」と通告した(『梨本宮伊都子妃の日記』)。昭和天皇も宮内省と一体となって宮家の皇籍離脱に動いた。昭和天皇が皇籍離脱を迫るGHQに抵抗したと主張する人がいるが、そうした史実は全くない。』
との事です。笑
よっぽど邪魔だったんでしょうね。国破れて長州閥昭和天皇一人勝ち。
新憲法成立前に追い出したかったようですが、GHQに新憲法成立後に新しい国会で、皇籍離脱一時金の審議をしろ、と釘を刺されてしまいました。そりゃそうですよね…。
旧皇族皇籍復帰希望者らが新憲法下でも継承権があったと主張できるのは、GHQが「待った」をかけたお陰。との事。もう、復帰は無いと思いますが、もうこれ以上怪しい皇族なんかいりませんよ。
そして、今回の最後に、これだけは書いておきたい事があります。
アイルランド系(ケルト)の下級貴族、バートランド・ラッセル。左翼系哲学者です。
この方は、1920年に中国に招かれ、1年弱、様々な大学で共産主義の基本理念を教えて回りました。その中には、若き日の毛沢東もおりました。やっぱりケルトが中国で共産主義を煽っていたのです。
ラッセルは、中国の古い文化を褒めちぎり、日本の文化を憎んでおりました。
孫文は、「中国の文明がわかるものは、ラッセルのような大哲学者しかいない。」と絶賛していました。
しかし、さすがの魯迅は見抜いておりました。「中国人は劣等人種であって、従来のままの有り様でいるより他に能がないと考え、故に、中国の古い物を褒めるのだ。」と…。
何故、同族であろうケルト系物部氏騎馬民族チームを見捨てて、漢民族百済農耕民族チームをケルトカルトがサポートするのか。
うかうかしていると、器用に勢力を拡大する力がケルト系物部氏騎馬民族チームにはあると判断し、警戒したからなのかもしれません。
かつて、物部守屋を討ち滅ぼした蘇我氏系の氏族である岸田氏、岸田文雄総理大臣が、人気低迷にもかかわらず、台湾有事を目前に控えた今現在、図々しく居座っているのも、物部氏系騎馬民族チームへの牽制メッセージなのかもしれません。
彼らは日本を憎んでいますから、いずれ日本の農耕民族チームからも手を引くでしょう。
台湾有事の本当の攻撃目標は、日本であるに違いありませんから。
大変長くなりましたので、今回はここまでにいたします。次回は、本丸の蒋介石と宗家三姉妹について、また長〜く書きたいと思います。(いつ更新できるかはわかりません)
その後で、物部氏の呪い②も、やる予定です。
(;^ω^)🐸
明日は、2月26日です。
上官の命令に騙されて、真面目に従って行動していたのに、気がついたらいつの間にか「叛乱軍」にされてしまっていた若い兵隊の皆様へ、心よりお悔やみ申し上げます。
それでは!
(^ω^)丿丿"🐸丿丿"
↓今回も、大量なウィキや、自分のメモの切れっ端、下記記事などをガッツリ引用させて頂きました。有難う御座いました。
http://www.meix-net.or.jp/~minsen/kako/murakami/murakami2.htm
https://tunobue.chips.jp/v10.html